海の都の物語 「米国独立200年記念ハワイ海上都市計画」

2023年11月10日

1778年にキャプテン・クックによって発見されるまで、ハワイは世界史の中では西洋にも東洋にも知られていなかったという意味で、全くの空白地帯であった。ハワイは発見された当初、キャプテン・クックの探検を支援してくれた英国の貴族サンドイッチ伯爵を記念してサンドイッチ諸島と呼ばれていた。サンドイッチ諸島という呼称は、ハワイ人にとっては屈辱的な命名といわれている。個人的にはウィットにとんだ命名であると思われるが、現地の人々はそうとは考えていない。歴史に名を遺したキャプテン・クックは、ハワイ島民によって殺害されるといった悲劇的最期を迎えた。キャプテン・クックが亡くなったハワイで米国独立200年祭を誰が発想したのかは不思議である。
アメリカの独立記念日はハワイ島が発見される2年前の1776年7月4日とされている。アメリカ独立200年祭をハワイで行おうという計画がハワイ州政府とハワイ大学とで持ち上がった。それも陸上でやるのではなく、オアフ島の沖合3マイルに浮かぶ海上都市(フローティング・シティ)を建設し、国際博覧会を海の上で開催するという壮大な計画があった。3マイル沖合という意味は、連邦法で州が管理できる海域は陸から3マイル沖合までとなっているためである。アメリカ独立200年祭、ハワイ州沖合3マイルのパビリオン、フローティング・シティというキーワードの組み合わせが、どのような経緯で誰によるものかは今でも不明である。多分、ハワイ州政府、ハワイ大学、Marine Technology Society、アメリカ連邦政府、海軍などの組織がJ.P.クレーバン博士を招致し、海上都市計画で著名な建築家である菊竹清訓を招致したのであろう。当初の研究費はNOAA(アメリカ合衆国海洋大気局)によって援助された。

日本人にとって、ハワイは憧れの夢のパラダイスであった。そういう私も夢と希望と新たな挑戦を求めてハワイ大学へ留学したのは1970年の9月であった。大学卒業後約半年間、梅沢忠雄社長のUG都市設計にアルバイトとして勤務した。その間に勧められてUGの株も購入した。梅沢氏からは、これからの日本経済は右肩上がりの経済で、未曾有に発展するので日本を離れるのはもったいないといわれ、留学をやめるべきともいわれた。私個人としては当初はハワイ大学院に入学し、次いでカリフォルニア大学バークレイ校の都市計画家クリストファー・アレキサンダー教授に師事することを夢見ていた。ところが、人生いたるところに青山ありで、1970年の9月から新学期が始まると1971年の夏には日本から菊竹清訓氏が招聘され、海洋工学専攻と建築専攻のジョイントプロジェクトとして「アメリカ独立記念200年を記念した世界海洋博覧会のためのパビリオン・ハワイ海上都市計画1976」プロジェクトが始まった。
これ以降、大学院を修了するまで海上都市計画にどっぷりと浸かることとなった。やがて菊竹事務所から原田鎮郎氏が派遣され、原田氏を筆頭にハワイ・フローティングシティ設計チームが結成された。リーダーの原田氏は頭がよく、優れたリーダーシップと設計に秀でた人物で、我々の兄貴のような人であった。その当時の学生アシスタントの給料はフルタイム(夏季休暇中)で月500ドル、ハーフタイム(授業再開時)には250ドルであった。1ドル360円の時代だったので使いごたえのある給料で、そのお陰で随分と豊かな留学生活を送ることができた。因みに当時の日本のアルバイト費はURTEC(丹下都市建築設計事務所)で学生の時給が100円であった時代であった。フローティング・シティの基本設計は1年で終了したが、我々は原田氏のスケッチやメモから新たな図面を起こし、スタディ模型を製作しそれを基にディスカッションしながら詳細を詰めていった。また、菊竹先生はそれをベースに海上都市が海に浮かぶイメージを毛筆で描いていた。図①ハワイ沖合3マイルに建設予定地(米国の法律により州法が及ぶ範囲が沖合3マイルまで)図②にロケーション写真を示す。ミルクボトル形状のフローティング構造物は、太いところで直径24m、細いところで直径8.7m、長さは海底部が84m、上空部が海面から96mであり、構造物の基礎となる大きさは180mになる。また、構造物の基本構造的材料は鉄筋コンクリートである。

図①ハワイ海上都市(国際博覧会会場)の位置関係

図②ダイアモンドヘッドとワイキキビーチに面したホテル群とピンクのホテルで有名はロイヤルハワイアンホテル。この3マイル先に海上都市が浮かぶ予定であった。

やがてオアフ島の北側にあるカネオヘ湾にある海軍工廠(Marine Corp)の海域で20分の一のスチール製の海上都市が浮かんだ。製造はホノルル市にあるサンドアイランド工業地帯にあったスチール会社で、1ユニット3個のミルクボトル形状として10個のユニットで都市の中核コアが建造された。それをバージの上に載せ海上輸送され、カネオヘ湾で組み立てられた。海上都市の建造、組み立て、アセンブリーの一連のプロセスをVTRにまとめられた。偶々、私の帰国に合わせてハワイ海上都市計画の実験風景をNHKのTV放送で使用するので届けるように依頼された。四谷駅の近くにあった菊竹事務所にそのVTRを届けると、菊竹先生から直々にホテルオータニで昼食をごちそうされ、翌日の朝に放送があるから一緒にNHKのスタジオに参加するように言われた。その際にハワイ大学での活動状況のスチール写真を持ってくるように依頼された。ハワイ大学に戻ってしばらくするとハワイの新聞に「浮かぶ海上都市がカネオヘ湾に沈む」という皮肉なタイトルで紙面を騒がせた。カネオヘ湾でフローティング構造物の動揺実験を実施中に、風が強く吹いたために高波が発生し、オーバーフローした高波が蓋をしていなかったミルクボトルのトップ部分から海水が浸水し沈没してしまった。現在でもその残骸はカネオヘ湾のラビットアイランド近くの浅瀬で見えるとハワイの新聞に掲載されていた。
フローティングのモジュールは3本のビール瓶のような形状が1モジュールを形成し、10個のモジュールが合わさって海上都市を形成する。外へはいくらでも増殖することができるという、所謂、菊竹先生のメタポリズム・デザインを発展させるアイデアであった。ハワイ大学では菊竹先生の大海原計画論を中心に講演され、さらにメタボリズムの基本についてと海上都市計画論についてJ.F.ケネディ・ホールで多くの聴衆を集めて開催された。結果的にハワイ海上都市はいくつかの理由で幻に終わった。その理由の一つが、沖縄海洋博覧会と競合したためであった(アメリカ独立記念祭が1年遅れて開催予定)、国際博覧会の規定により少なくとも5年間は開けなければならなかったことである。それが明白となると、J.P.クレーバン学長は日本に乗り込み当時の首相である田中角栄に面談し、日本館の一つであるアクアポリス(海上都市)と並列してハワイ海上都市を展示したいと訴えた。目白の田中邸には多くの陳情者が待っており、その間を縫って田中首相に面談した。結果としてクレーバンの提案は実現しなかったが、田中角栄のベストセラー「日本列島改造論」にサインを添えてプレゼントされた。当時は日米貿易摩擦でギクシャクした関係にあったので、クレーバン博士にとってはハワイ海上都市の提案は日米貿易摩擦の解消の一つとして絶好の提案と思われたかもしれない。また、その前年にはハワイでニクソン・田中会談が行われていた。

ハワイ海上都市は蜃気楼のごとくに消えたが、それから数年後に我が国も造船不況を迎えると、土木工学科や造船工学科の名称変更が盛んになり海洋に関わる学科が設立されるようになった。1970年代は海洋開発の曙といわれ、商社や銀行、建設会社が競って海洋開発を目的とする会社を設立し、政府も海洋開発に力を注入していく時代であった。また、日本大学理工学部では1978年に海洋建築工学科を設立し第1期生を募集した。これも一つのハワイ海上都市計画の影響かとも思われる。また、ハワイ大学を修了後も国際会議や旅行で何度もハワイを訪れるが、ハワイ大学も大きく変貌し、かつての建築科があった木造校舎のアネックスは真新しい鉄筋コンクリートの瀟洒な校舎に変わっていた。
なお、今回用いた図表は近藤の撮影した写真を除くと総てNOAAの”Hawaii’s Floating City, Development Program” First Annual Report-Fisical Year 1972 から引用した。

図③海上都市のマスタープラン。中心部にホテルや居住空間が立地し、その周辺に商業施設や展示施設が展開する。各施設間はモノレールによって接続され、オアフ島とは船舶による海上輸送や潜水艇によって結ばれる計画であった。

図④海上都市の万博会場のイメージスケッチで、パビリオンの交通ネットワークはモノレールによって結ばれ、構造物の荷重がカラムの中心に集中するように釣り構造方式が提案されていた。

図⑤原田チーフアーキテクトの指導の下で我々が作成した海上都市模型で、スタディ模型は段ボール紙で作成され、完成模型は総てソリッドなプラスティックを成形したものである。パビリオンの覆い構造はストッキングを用いてメンブレーン屋根をイメージした。全体のソリッドモデルはアメリカ人の夫婦のアルバイトが作成した。勿論、我々もお手伝いして完成に導いた。

図⑥ミルクボトルのような海洋構造物が3本によって1ユニットを構築し、都市の中心部は10ユニットを連結し、中心市街地を構築し都市の安定性を保つ計画であった。このモデルの参考となったのは米国海軍の研究報告であった。米国海軍はこのミルクボトルタイプの構造物を連結して航空母艦やミサイル基地を考案していた。

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