海の都の物語 「シンガポールの奇跡」

2022年08月04日

私は70年代からマレー半島の極小国であるシンガポールを何度も訪れている。訪問する度にその変化は驚くほどで、低層のコロニアル住宅地がいつの間にか高層ビルになるという変化ではない。都市の広域な地域が地下や地上のインフラストラクチャーを含めて、土地利用やアーバンデザインそのものを含めて大変身するのである。
その背景にはシンガポールの初代首相であったリー・クワンユーのグローバルな経済戦略があった。将来の国家のビジョンを提唱し、資源も技術もない、いわゆる無いない尽くしの中で、国民の福祉と経済的基盤を構築した稀有な人物である。彼に比肩できる日本の政治家は、大正大震災の帝都(東京)復興計画を指導実行した後藤新平のみであろう。共通して言えるのは、経済のグローバリゼーションを見越した海陸空のインフラ整備、快適で安全な住宅の供給、緑豊かなガーデンシティ(風致地区指定)の構築など、これまでにない大胆で緻密な国家(都市)計画を樹立したことだ。

シンガポールのシンボルであるマーライオンとマリーナベイサンズ・ホテル。
設計はカナダ人のモシェ・サフディが中国の風水を考慮して、側面から見ると漢字の「入」をデザインし招福を表しているという。
また、建設会社は5社のコンペにより最終的には韓国の建設会社「双竜建設」が受注している。3棟のホテルは1階のロビーや地下で繋がっている
が、上部にある「サンズ・スカイパーク」というプールと庭園でも繋がっている。

初めてシンガポールの飛行場に着いてドアが開いた途端、熱風と共にカレーの香りが鼻腔を刺激した。緑豊かでさわやかな薫風を期待していた私は、全身がカレーの粉をまぶされたと思うくらい強烈なスパイス香の歓迎であった。ここはシンガポールなのか、はたまたインドなのか、とさえ思った。
当時は今のような巨大で眠ることのないエンターテインメント施設としてのチャンギ空港ではなく、軍隊のバラックが立ち並ぶ粗末な空港であったと記憶している。今では空港の名前も忘却の彼方であるが、シンガポールの空港の歴史を調べてみると、戦後の空港は軍民共用でパヤ・レバール空港(1955年~1981年)であることがわかった。航空機の大型化とアジアのハブ空港へと発展する過程で、現在のチャンギ国際空港に移設されたといわれている。当時の空港施設の周囲は閑散としていて、ガーデンシティというにはおこがましい貧相な飛行場であった。その時は軍民共用とは知らなかったのである。ただし、タクシーが中心街へ向かうにつれて緑豊かな街並みが我々を歓迎してくれた。

「サンズ・スカイパーク」にある屋上プールは「インフニティ(無限)プール」と名付けられている。スカイパークの全長は146メートル、面積は1ヘクタール、プールの水槽の総重量は1,400トンもあるという。

「マリーナベイ・サンズ」に併設されたショッピングモールで、頭上のドームから噴き出す落水を楽しむ観光用ボート。透明なドームに溜まった水が満杯になると落下する仕組みである。

太平洋戦争のころ、シンガポールは昭南島といわれ、英国に代わって日本帝国陸軍の東南アジア征服の戦略上の拠点となっていた。戦後も、東南アジア各国独立に貢献した日本軍残留兵が多数いた。そのような人々の一人に、中野学校出身者で戦後復興期の日本経済の先兵として活躍していたA氏がいる。1970年代後半、マレーシアの水上居民を調査していた頃にお会いした方で、マレーの虎が山下奉文大将ならば、彼はジャングルのハリマオと称すべきか。
A氏はインドネシアのスハルト大統領、フィリピンのマルコス大統領にも近く、独立運動や日本のODA案件の裏で活躍していた。ご自分の体験として糖尿病や肝炎などの文明病の多くは、ジャングルで酒を飲まず粗食に甘んずれば自然治癒すると豪語していた。シンガポールの中心市街地にあるコロニアル風の住宅に住み、居間の真ん中に虎のはく製が牙をむいて鎮座していた。
彼の紹介でシンガポール政府の住宅政策局の若き女性官僚に会った。眼がキラキラと輝き、言語明晰でネイティブのような英語を駆使して希望にあふれたシンガポールの未来を語ってくれた。このような華僑系マレー人であるエリート華人を「海峡華人」と呼んでいる。リー・クワンユー首相の号令一下、総ての国民の所得倍増と近代的集合住宅を供給するという計画の実現に向けて実直に働いていた。
この時代のシンガポールは発展途上の階を駆け上る時期であった。日本は戦後賠償のODAという名目で、東南アジア諸国を対象に国税を循環させる仕組みを構築していた。すなわち、武力の代わりに国民の税金を循環させるある種のマネーロンダリングであった。実際にシンガポールの港湾工事や空港建設は日本のゼネコン、マリコンが担っていたといっても過言ではなかろう。そのような中で、中野学校の幽霊が跋扈し武器を用いない経済的戦場で戦っていたのである。それから約半世紀が過ぎ、まさに芭蕉が「兵どもが夢のあと」と詠んだようにシンガポールは大きな変貌を遂げている。

マリーナベイサンズ・ホテルの屋上から見たガーデンズ・バイ・ザ・ベイの全景を俯瞰する。沖合には入港を待つ貨物船やコンテナ船が密集して停泊しているのを見ることができる。このような情景はもはや日本の港では見られないものである。

ガーデンズ・バイ・ザ・ガーデンにあるスーパー・ツリーグローブとツリーを繋ぐ遊歩道を下から見上げる。夜には色様々な照明が幻想的な世界を醸し出す、見事な演出である。これらのガーデンのデザインはコンペによって英国のチームが勝ち、この奇妙でユニークなガーデンや施設を設計した。

海の都として発展してきた基盤は、何よりもシンガポールが立地する地政学的位置づけであろう。特に複雑な国際関係にあって、シンガポールは常に宗教、イデオロギー、戦争、貧困、政治、経済的に安定していることがあげられる。他の海の都はシンガポールを凌駕する資源や技術を持っているが、地政学的な不安定さや宗教的戒律、紛争地域に隣接するといった不安定さをぬぐえない。
過去50年にわたってシンガポールの変化を見てきたが、最大の変化はIR(統合型リゾート)を容認したことである。かつて英国軍のシロソ要塞があったセントーサ島にユニバーサルスタジオを誘致した時はその先見性に驚いたものである。しかし、チューインガムやタバコの吸い殻のポイ捨て、公共の場での喫煙に厳しかった国民が、カジノを含むIRを二か所も容認したことは驚きであった。すなわち観光収益を期待して、シンガポール人の美徳である清潔さや環境保全という道徳性を横において、IRを誘致したことはまさにコペルニクス的発想の転換といえよう。その背景には国民の高齢化がある。その隘路を解決する手段としてIRを誘致し、周辺国の若い人材と資金を迎え、活力があり魅力ある都市国家の構築をめざしていると思われる。
IRの次に何が計画されるのか、とても楽しみである。敢えて一つの可能性に言及するならば「インテリジェント・シティ」という計画概念がある。世界の都市がこの方向で動いている。すなわち、AIを駆使してカーボンニュートラルと自然エネルギーの有効利用を図り、それに伴う新たな産業の創出を図ろうとする試みである。現代の海の都の代表であるシンガポールが、世界に先駆けてこの概念を実現する可能性を有しているといえよう。

マリーナベイサンズ・ホテルの屋上から望むマリーナベイ・クルーズセンターと係留されているクルーズシップ。このターミナルの屋根のデザインは打ち寄せる波をイメージし、クルーズシップがセンターに近づくにしたがって波が変形するように設計してある。昔のクルーズセンターは都心部のハーバーフロント・センターにあり、スタークルーズの拠点港であった。ここから近隣のマレーシアへの3泊4日のショートクルーズに出航していた。また、この周辺にはフードコートの代表的なシャイム・フードセンターがある。

マリーナベイ・クルーズセンターに到着し荷物を受け取った人々がロビーでバスを待機している様子。

ターミナルには二隻のクルーズ船が停泊していた。ターミナルは一度に1800人を捌けるというが、最大3000人は大丈夫と言われている。このターミナルを拠点とするスタークルーズが頻繁に近隣諸国を3泊4日程度で周遊している。一般的に、クルーズ船では食事や劇場のショーなどのエンターテインメントは無料であるが、スタークルーズでは高級レストランは有料となっているので注意しなければならない。

マリーナベイ・クルーズセンターに隣接してシンガポールの島嶼やターミナルを結ぶフェリー埠頭である。いわゆるローカルネットワークのセンター的役割を担っている。都心からはMRT(高速大量輸送鉄道)で結ばれているが、駅から国際クルーズターミナルまで歩くには結構な時間距離がある。

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