海の都の物語 「ブライトン、海洋リゾートの形成史」

2020年12月16日

ドーバー海峡を望むイギリス南西部にある海洋リゾートの街、ブライトン・アンド・ホヴは、東京と比べると気温はかなり低く、東京が 30 度を超える季節にブライトンは18 ~ 20 度しかない。これは緯度が高いのと日照時間が少ないことにも原因がある。

ブライトンと日本の湘南海岸とは歴史的に深い関係がある。それは明治政府による富国強兵政策において、英国の例にならって兵士の健康管理に海水浴の効果を生かそうと、当時の陸軍軍医総監だった松本 順が説いたことが端緒。全国で海水浴場が開設されるようになり、湘南海岸もその一つとして整備された。海水浴(Sea Bathing)は、当時の最先端の医療行為であった。それゆえ、湘南海岸には 海水浴場だけでなく、肺結核治療院であるサナトリュームも多く立地していた。

18世紀の後半にウェールズ王子(のちのジョージ四世)が皇太子時代に建設させた王宮の離宮。外観はインド・イスラム風のデザインで内装は中国風と、当時の植民地支配を体現した豪壮な建築様式となっている

イスラミックなディテールとインド式の屋根と破風が混在するデザインは、巨大帝国の威光を感じさせる。屋根に突き出たタワーは暖炉の煙突で、ブライトンの厳しい冬を連想させる

海岸の遊歩道はすべてバリアフリーに整備されアクセシビリティーの高い街となっている。LGBTのコミュニティーやそれを支援する組織が多数あり、ブライトンは誰にでも優しい街で多様性を認める社会となっている

一般的に、ビーチに面しているリゾートをビーチ・リゾート、あるいは海洋リゾートと称し、これは空間の概念である。そこには人間の気晴らし、行動レクリエーション(娯楽)を担保するホテルや遊戯施設が設けられている。リゾートを成り立たせるには、社会システムとしてのレジャー(余暇時間)という概念が必要である。ブライトンの海洋リゾートとしての発展は、王侯貴族の健康志向に始まり、次いで産業革命で資産をなしたブルジョアジーが続いたことで進んだ。さらに法律による労働者の余暇時間の増加が大きなトリガーとなった。

ブライトンを海洋リゾートとして宣伝した立役者は、ウェールズ王子(のちのジョージ四世)であった。この当時のイギリスは産業革命の真っただ中にあり、スモッグ(霧)の都ロンドンとして名を馳せた時代であった。そのため、皮膚病、リュウマチ、気管支炎などがイギリス全土で流行し、工業都市は疾病都市ともいわれていた。その対比として、リゾートの存在価値が高まったのだろう。

リゾートが大衆化するまでに重要な役割を果たしたのが宿泊施設(ホテル)であった。王侯貴族はパビリオンや別荘に宿泊したが、必然的に求める娯楽は社交場へと移っていくことになった。その結果、ホテルは宿泊機能だけではなくレストラン、社交場としてのボールルーム(ダンスホール)、そしてカジノが求められるようになり、多機能化し巨大化していった。

1868年に建てられた上流階級のためのグランド・ホテル・ブライトン。当時、ロンドン以外で初めて 油圧式のエレベーターを備えた先進的で高級なホテルであった。古い写真を見ると、ホテルの前にはボートが浮かぶ人工池が造成されていた

ブライトンの栄枯盛衰の歴史を見ると、さまざまな生き残りの施策が見えてくる。最も注目されるのが1850 年に建設されたプレジャー・ピアといわれる観光桟橋である。この背景には法律の改正、投資家や保険会社のギャンブル的後押し、周辺の農村漁村からの安価な労働力の供給などが挙げられる。観光桟橋の橋脚や海辺の遊歩道の欄干などは、ビクトリア時代のハイテク技術である鋳鉄製であり、いま見ても優雅で繊細で気品に満ちている。やがて1920 年代に入って単純な遊歩を目的とした観光桟橋が飽きられると、桟橋の上にパビリオン、レストラン、ボールルームなどが設置されていく。また、海岸および沿岸部に映画館、屋外水泳プールなどの娯楽施設が建設されると、観光桟橋は衰退していった。

自治体は地域活性化のために法律の改正や融資制度などのテコ入れを行い、1970 年代にはEUでも大規模な1,600 隻収容のブライトン・マリーナを建設し、併せて周辺に高級な集合住宅、商業コンプレックスなどを設けた。すなわち、定住人口の増加を図りつつ、不動産投資を活性化し、新たな就業機会の創出を図った(日本の海洋リゾートは施設中心で、地域経済の仕組みまでには至っていない)。また、近年ではパレスピアの大々的再開発が行われ、併せてブリティッシュ・オールウェイズ i360という展望塔も新たに建設され、外地からの年間の観光客数が100 万人以上も増えているといわれている。

1899年完成のパレス・ピア。1971年に文化財に指定されたあと、2回所有者が変わって、現在の名称はブライトン・パレス・ピア。橋脚部分は現在でも鋳鉄製だ(写真は2010年のもの)

台風と火事によって廃墟となったウエストピアの残骸。手前の浜はこぶし大の礫で構成されている。色は茶色、褐色、灰色など軟らかい肌合いで、座っても安定している

ブライトンビーチには子どものための施設が点在している。ビーチに真水のプールがあるのは、西洋人にとっては常識である。子どもの皮膚は海水に弱いため、そして海は溺れる恐れがあるために歓迎される

ビーチに置かれたレンタルのディンギ―ヨット。470級、スナイプ級、モノハル、カタマランなどがあり、各自のスキルに合わせて借りることができる

気温18度の中で泳いでいる娘と父親。母親が赤いオーバーコートを着て二人が水から上がるのを待っているように思える。この日は8月28日、夏のシーズン最後の週末であった

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