通信No.27 海の言葉㉑

2017年10月30日

【Ostrakon陶片追放】

カキは古典ギリシア時代ostreonといわれ、今日のイタボガキ類の属名(Ostrea, Crassostrea) などに継承されている。Ostreonは「骨」を意味する印欧祖語ost-から派生したが、これは今日のOsteichthyes (硬骨魚綱), teleosts (硬骨魚類) にもみられる。カキの殻が骨のように硬くて白いことによる名称だろう。カキの殻は、概ね楕円形だが変化に富んで一定せず、縁は不規則だが鋸刃のように鋭い。この形状は陶器の破片にも共通する。カキの殻はostrakonというが、この語は陶器の破片をも意味するようになった。ここで想起されるのが、紀元前5世紀にアテネで行われた奇妙な選挙「陶片追放」である。選良とは反対に、「嫌な奴」に投票する選挙だ。

当時は、自由と自治を理想とするポリス(都市国家) の時代であった。ポリスは、直接民主政を尊重し、君主の存在を嫌った。市民の中に独裁者になりそうな人物が現れたとき、その人物をいち早く追放すべきかどうかを市民の直接投票で決めるのが「陶片追放」であり、6,000票以上を投じられた者は無条件で10年間追放された。ただし、後のローマにおける罪科としての追放 (exile) ではないから、市民権や財産は毀損されず、帰還後には指導的公職に就くこともできた。ポリスに危機が迫ったとき、たとえばペルシア軍が侵攻してきたときには、ポリスが当人を召還し、将軍に任ずることもあった。

このように民主的で穏和な制度として487 B.C. にスタートしたが、投票は無記名、裁判もなく論告も必要なかったから、やがて反目しあう政敵間で悪用されたり、理由もなく無責任に投票する者がふえるなど弊害が大きくなり、417 B.C. に廃止された。この制度では、追放したい人物の名を陶器の破片に刻んで投票することとされたが、その陶片をostrakon といい、制度をOstrakismos (英Ostracism) といったのである。以前はこれを「貝殻追放」と訳したが、今は「陶片追放」と訳される。ただし、陶片とともに貝殻も投票されていた証拠があるので※、「貝殻追放」はあながち誤訳とはいえない。

この制度で追放された人の中に、サラミスの海戦で大国ペルシアの艦隊を破り、アテネのみならず全ギリシアの独立を守ったテミストクレスもいた。最も有能な将軍といわれ、下層階級に目を配りつつ民主化を推進した彼の名声はいやがうえにも高まり、貴族階級の反感を買うようになった。彼らは、テミストクレスの名を刻んだostrakonを読み書きできない市民に配って投票させることまでしたという。かくして、アテネは彼を追放した(472 or 471 B.C.)。さらに反逆罪を犯したとも糾弾され、生涯アテネに帰ることはなかった。

それでも彼は、愛国心を失わなかった。かつての敵国ペルシア帝国に亡命し、厚遇を受けつつ生涯を終えた。彼を高く評価した当時のペルシア王とは、サラミスで彼に撃破されたクセルクセス王自身だとも、その息子アルタクセルクセス王だともいわれる。プルターク英雄伝は、父の敵であったテミストクレスに対するアルタクセルクセス王の武士道にも通じる応対を伝えている。とりわけ、王の恩寵に甘えていればいずれペルシアの将軍としてギリシア侵攻の命を受け、王への忠誠心か祖国愛のいずれかを裏切らなければならなくなると予見して自害したテミストクレスを深く惜しみ賞賛する王の姿は感動的である。

本通信No.11では、サラミスの海戦に勝利したギリシアは、「海を支配する国は世界を制するということを、歴史上最初に証明した国であった」と書いたが、その立役者がテミストクレスだったのだ。その彼がカキとこんな縁で結ばれているというのも、海にまつわる歴史のおもしろさである。

※芳賀京子(監修), 東京国立博物館ほか(編) 2016. 特別展「古代ギリシャ:時空を超えた旅」朝日新聞社ほか, 401 pp.

Posted on October 30, 2017

生物生態研究所通信トップに戻る