通信No.32 海の言葉㉖

2018年07月12日

【Planktonの語源‐通信No. 3増補】

“Plankton”という語は、1887年ドイツのV.ヘンゼンが、遊泳力がないか、あっても大変弱いために、水のまにまに漂っている生物群の総称として提唱した用語である。1900年、岡村金太郎は「浮游生物」という漢語を新たに造ってこれに当てた。しかし現代は「游」の字は常用表外とされ、それゆえ浮遊生物と書かなければならないが、「浮遊(ぶらぶら遊び歩く)」を「浮游(あちこち歩きまわる、定職なく流浪する、蜻蛉)」の代用語とするのは不適当だとの異論があり、「プランクトン」と片仮名表記にすることが多くなった。

Planktonはπλανκτος (planktos)というギリシア語に由来する。その意味は、一般的には「放浪者、さまよい歩くこと」だとされる。しかし、そう単純ではない。惑星planetの語源も同じくplanktosであることが示すように、planktosは人間の放浪だけをいうのではなかった。たとえば、ホメーロスの「イーリアス」では、馬が進路を外れて迷い走るとき、また、同じくホメーロスの「オディッセイア」では、船が間を通ろうとすると両側から浮動してきて船を砕いてしまう「漂い岩」にもこの語が使われている。こうしてみると、黄道十二星座間をさまようように動く星をplanetと名づけたのも、不思議ではない。巨大なplanetと微小なplanktonが同根の言葉だというのは、意外ではないか。

ここで注意したいことは、馬が迷ったのは騎手の手綱さばきが下手だったからであり、岩が動いたのは海神ポセイドンがそう仕掛けたからだということである。馬や岩が自分の意志で迷走したり動いたりしたのではないのである。英国のプランクトン学者A.ハーディ卿は1956年の本で、ギリシア語planktosには1単語では表わしえない深淵な意味があった、と指摘している。すなわち、“that which is made to wander or drift”自分の意志では制御できない放浪を運命づけられた者、そういう深い意味の語であったと。その宿命を与えたのが神々であったことは、古典ギリシアの人生観、宗教観からして明白である。

海は、深い。世界の海の平均水深はおよそ4 km、明るいのはその表層たかだか100 mにすぎない。光合成植物はその表層に浮游し続けなければならない。しかし、生物体を構成する原形質は海水よりも重いから、必ず沈む。どうすれば浮游していられるのか、たった一つだけ方法がある。小型になることである。小型になれば、体積(∝重量)に対する表面積の比が大きくなり、体表面に生ずる海水との摩擦抵抗(∝表面積)も大きくなって沈みにくくなるからだ。それゆえ、広大な海洋の植物は粉粒のように小さい。小さくなって浮遊する以外に生存の手段はないのである。そういう宿命を負った植物が「植物プランクトン」であり、それが小さいから、それを摂食する「動物プランクトン」もまた小型になって海洋表層に浮遊し続けなければならないのである。プランクトンとは、浮遊生活をし続けるという宿命を負わされた生物なのだ。これが、 ハーディ卿の考えだったのだろう。

プランクトンが海洋環境に適応して繁栄しているおかげで、あらゆる海の生物の生存が保障されている。今日では、植物プランクトンの光合成は、大気中の二酸化炭素を海中へ除去する過程(生物ポンプ)とみなされることもある。プランクトンはいかにも小さくてか弱そうだが、プランクトンなしには、海洋生態系は成立しないし、地球環境も維持されないのだ。プランクトンは永遠に浮遊し続けるように運命づけられており、定着定住することは許されない。しかし実際には、彼等こそ海洋生態系の支配者、ひいては地球環境の守護神ともいえるのである。我われ人間もプランクトンの恩恵に浴していることを忘れてはいけない。

Posted on July 12, 2018

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