通信No.35 海の言葉㉙

2018年12月27日

【Ernst Haeckel】

通信No.34で、ヘッケルとヘンゼンが対照的なライバル同士だったと書いた。私はプランクトン学徒として、プランクトン学の始祖であるヘンゼンに親しみを感ずるが、ヘッケルにも強く惹かれる。

ヘッケル(Ernst Haeckel, 1834-1919)は、ダーウィンの熱烈な信奉者にして擁護者で、ダーウィン学説の定着に貢献した科学者として知られる。反面、無節操な科学者だったと非難されることもある。この非難は、彼の一元論的な論理展開に原因しているようにみえる。自説のために不都合な事実を無視したり、推論をあたかも事実のように扱ったりしたと非難されるからだ。しかしそれを割り引いても、彼の理論展開は大変魅力的である。

彼は非常に広い視野で「原理」を見いだし、精力的に著述した。そのとき、論理の錯綜を嫌って枝葉をそぎ落とし、推論を事実のように記述したのだろう。彼は、原生生物から植物、高等動物まで、非常に多くの生物を観察した。その結果、生命の誕生から多細胞生物さらに高等動物への分岐多様化の連続性や、異なる動物の個体発生にみられる類似性等々に気付いたのだろう。洞察、である。そしてその過程で、これらを一元的に説明しうる論理がダーウィンの説だと直感したのではないだろうか。そうだとしたら、彼はそのときダーウィンを超えたといえるかもしれない。

肧が、予め決定された筋書きに沿って発生分化していく過程は正しく「進歩」であり、それが祖先の変遷を反復しているとみえたとき、彼は、ダーウィンの説は「生物は進歩、進化する」ことを示していると確信したのではないか。それは、ダーウィンが意図したことではなかったといわれる。ダーウィンは「transformation: 変化、転換」といったのであり、「revolution: 進化」とはいわなかった、と。この点でも、ヘッケルはダーウィンを超越してしまったのだ。

ダーウィンの説を「進化論」と理解したのはヘッケルだけではない。政治経済の世界でも、変革、革命を社会の進歩とする主張が力を得た。仁徳は生長する人の心の中で進歩するという思想家も出た。また、生物には進化に応じた優劣の序列があるという見方、さらに、否、ついに、人種間にも優劣の差があるとの思想までうまれた。ヘッケルを非難する人は、彼がその人であり、それがナチズムにつながったという。当然、強烈な反論もある。ナチは彼の著書の一部を発禁にしたくらいだから、ことは単純ではなかったのだ*1。

だれにも欠点があり、どんな理論にも弱点がある。欠点や弱点ゆえに全否定するのは不当である。後学は、先学の欠点を論うのではなく、先学の優れた点に倣うべきである。先端的かつ先鋭的な研究がもてはやされる昨今、彼の俯瞰的な学風に己が姿を映してみることが必要だとの感を強くする*2。専門や個別の興味から一歩離れ、それを海洋生態系の全体像の中に位置づけ、包括的な視点から俯瞰しなおす必要があるのではないか。生物海洋学にも雄大な仮説はあるが、その多くは欧米人のものである。このままで良いはずはない。

私が学生だった1960年代、論文では「事実」の記述が重視された。仮説には独断がつきまとい、独断は誤りやすいという戒めがあった。若い研究者が新理論を主張しても、にわかには信用されないという雰囲気があった。まだ明治の雰囲気が残っていたのだ。明治時代、新規な科学を貪欲に導入したとき、まずは西欧の学理を学び、わが国底辺の水準を高めることが先決であり、新理論の展開は次の仕事とされていたにちがいない。今は明治150年、わが国の科学は成熟した。若い科学者であっても臆することなく大胆な仮説を提唱するときである。改めて、ヘッケルには倣うべきことが多いといいたい。

*1 Egerton, F.N. (2013) History of ecological sciences, part 47: Ernst Haeckel′s ecology. Bull. Ecol. Soc. America, 94: 222-244.

*2谷口旭(1986) 海とプランクトン②. 海洋と生物, 8(3): 167.

Posted on December 27, 2018

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