通信No. 36 海の言葉30【問題をはらむ専門語①-序】

2019年05月17日

【問題をはらむ専門語①-序】

新語は言葉の起源であったし、流行語も昔からあったに違いない。わが国では、仏教や儒教とともに入ってきた外来語は、文字も意味も難しく、発音もしにくかっただろう。それを分かりやすく言い換えたり書き換えたりしてできた新語は、数知れない。そのような必要性のもとで創出された新語は生活に定着し、人々の思考に拡がりや深まりをもたらした。

新語が誕生するきっかけは、いろいろある。同じ音の異字を混同したり、字義が似た字を取り違えたりした結果、長い間に言葉や字義すら変化することは中国でも起こった。わが国でも、似た漢字や漢語の混同、読み違い、誤った解釈などが起こり、いつの間にか誤った方が定着した例が少なからずある。意図せずに新語が創出され、定着したわけだ。仲間うちの符牒隠語の類や駄洒落も数多く造語された。多くは流行のあと消え去ったであろうが、使い勝手が良いために日常語として定着した語もあった。この場合も、新しい概念を示すという明確な意図はなかったが、結果的には新語として機能したことになる。このように、意図せぬ間違や駄洒落であっても日常の言葉として定着することもあるから、「言葉は常に変化する」というのだろう。この現象は、洋の東西を問わずにみられ、言葉の本質だとさえいえる。しかし、変化が望ましいというのではない。

人間は言葉の動物であり、言葉ゆえに人間には理性が働き、知性は深化する。理性が先か言葉が先かは別として、社会を形成しつつともに進化する人間の特性は、言葉なくしてありえない。その言葉が頻繁に変化するとこの特性は阻害され、社会は混乱し、発展は停滞する。旧約聖書の「バベルの塔」が物語るとおりである。言葉は、安定していなければならない。一方、社会が進歩して従来の言葉では言い尽くせないことが生じれば、新語を作らなければならない。実際に幕末から明治期に西欧の思想や科学技術を導入したときには無数の新語が作られ、おかげで今日の繁栄が可能になった。社会の発展と新語の創出は、不即不離だといえよう。それは、流行語とは別物である。

近年は必要のない造語が横行し、刹那的にもてあそばれては消えていく流行語がバブルのように吹き流されるので、人々の言葉に対する感覚が鈍感になった。そのうえ「新語・流行語」などと無神経にまとめるから、新語もすべからく泡沫的であるかのような印象があおられる。その結果、必要に迫られて新語を提案したり使用したりするときにも緊張を欠くようになったのではないか。ブログやSNSなど、誰でも気軽に文章をさらけ出すようになったことも、言葉や文章に関する緊張感や責任感、さらには羞恥心をも薄れさせているのではないだろうか。国中に造語家や文章家が溢れ、国語が衰えているのだ。

本コラムは、「海の言葉」と銘打っているように、言葉にこだわっている。専門的な用語のかげにある逸話を紹介することに意を用いているが、そうこうしているうちに、科学技術分野の専門語のなかにも、怪しまざるを得ないものがあることに気が付いた。論理を旨とする科学技術だけに、定義が不合理ならば、その語は弊害をもたらす。そういう語が定着することは望ましくないと考え、問題をはらむ新語も取り上げることにしたい。小見出しは【問題をはらむ専門語】とする。もって、諸賢の考究を期待する次第である。

なお、ここでいう専門語とは、「学術用語:学問・技術に関する用語のうち、共通の理解のもとに統一して用いられるように選定された術語(小学館 日本国語大辞典)」のこととする。学術界における用語ではあるが、いったん新聞や雑誌に載れば、その影響は社会全体に波及する。影響を軽視するべきではない。

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