通信No. 39 海の言葉 33【補償深度①:経験則に至るまで】

2019年09月13日

【補償深度①:経験則に至るまで】

海洋生態系における基礎生産者は植物プランクトンである。海底まで光が届く浅海域では海藻や海草が、深海の熱水鉱床などでは化学合成細菌などが基礎生産を担っている。しかし、広い海の大部分では、基礎生産と植物プランクトンの光合成は同義である。

いま植物プランクトンの、光合成速度をPとし、呼吸速度をRとする。要点を絞るために単位は省略しよう。Pは、明るい表層では大きいが、深さとともに海中光が減衰するにつれて低下する。一方のRは、明るさに影響されないので、全層一定である。それゆえ、表層ではP>Rとなって植物プランクトンは増えるが、下層ではP<Rとなって衰退する。その間にはP=Rとなる水深が存在する。それが補償深度(compensation depth)である。また、海表面から補償深度までの層は有光層とか真光層といわれるが、その機能を重視して生産層ということもある(これらの呼称には混乱がある)。

生産層での生産が海洋生態系全体を支えているのだから、その範囲を明らかにすることは生態学上重要であり、補償深度の測定はしばしば行われる。ところが、その測定には曖昧さや誤解が濃厚にまとわりついている。それを指摘することが今回の目的である。なお、米国のKarl Banse教授は2004年に補償深度に関して厳格な論説を出版したが、本稿は実用的な解説である。

補償深度を知るためには、さまざまな水深の植物プランクトンを培養してPとRを明らかにし、どの水深でP=Rになっているかを調べなければならない。そしてそれは、ある時点での瞬間的なバランスではなく、1日間を単位としたバランスでなければならない。瞬間的にPとRがバランスする水深は、日出から日没まで明るさが変るにつれてたえず変化するものであり、苦労して測定しても生態学的な意義は小さいからである。

生物の活動にも日周性がある。そうした日周期の変動は1日間を単位にすることで消去することができ、異なる生物群集の生産力等を共通の時間スケールで比較することができるようになる。生態効率などのパラメータも評価しやすくなる。しかし、1日間単位でのPとRを求めるには、現場での培養実験を24時間、短くても日出から日没までの間継続しけなければならない。時間に余裕がある調査航海でなければ、実施は不可能である。

1950年から70年代にはそういう調査研究が、世界の海で各国の研究者によって数多く実施された。地球全体の基礎生産力はいかほどの世界人口を養いうるかという人類共通の興味があり、時間を惜しまぬ調査研究が求められたのである。一年間の総基礎生産量が海洋全体と陸全体とでほぼ等しいという知見は、そのときに得られたものである。そうして数多くの研究成果が蓄積されていく過程で、補償深度を海中光量の鉛直分布から推定する方法が考えだされた。「海面直下の光量の1%が到達する深度を補償深度とする」という経験則である。これによって、煩雑で時間がかかる培養実験をしなくても、水中光量の測定をするだけで補償深度を推定することができるようになった。さらに、補償深度は透明度の3倍の深度に近いということも分かった(沿岸水域や湖沼では2.5倍)。

この簡便な経験則は、研究者の興味が基礎生産から二次生産などへと変わるにつれて使われなくなり、今では正確に記憶している人が少なくなった。その結果、補償深度の推定や海中光量の測定に混乱がみられるようになった。近年は、海底まで光合成が可能な浅場を造成して底層水の貧酸素化を防ぐとか、海底マウンドの築造で湧昇流を起こして基礎生産を高めるというようなことが企図されるようになった。そういうときには、補償深度を明らかにすることが決定的に重要であり、海中光量の鉛直分布を正確に観測する必要性が高くなる。

K. Banse (2004) Should we continue to use the 1% light depth convention for estimating the compensation depth of the phytoplankton for another 70 years? Limnology and Oceanography Bulletin, 3: 49-52.

生物生態研究所通信トップに戻る