通信No. 42 海の言葉36【問題をはらむ用語④-低次生態系】

2019年09月13日

【問題をはらむ用語④-低次生態系】

日々科学は進歩し、新たな専門用語が必要になる。新種生物や新規化合物の学名は典型的な例である。

そこには国際規約があり、他との混同を許すことなく当該物だけが特定されるよう注意深く定義を与え、命名する。この要件は、学名にかぎらず、すべての専門用語に求められる。定義に幅を持たせるときも、その幅を誰もが恣意的に改変できるような曖昧さは許されない。

新種の命名は、実際には次のような過程を経るであろう。まず標本を精緻に調べて当該種に固有の特徴を確認し、報文に記載すべき事項と内容を見極め、ようやく記載文の作文にかかる。はじめは複数の名称が思い浮ぶであろうが、種固有の特徴が明らかになるにつれて、最もふさわしい学名が選択される。こうして「名」は正しく「体」を表すことができるようになる。種の特徴が先であり、名称はその後である。これは、すべての専門用語に共通することであろう。定義が定まって、名が決まる。

最近、「名」が先走ってしまい、「体」をなさない新語が目につく。先の「問題をはらむ用語②」の「再生可能エネルギー」はその例である。今回の「低次生態系」も同類であり、生態学を学ぼうとする若者に悪影響を及ぼす危険をはらんでいる。

「生態系」は、いうまでもなく定義の定まった語である。C.R. Darwinの進化論を受けてEcologyという語が作られたのは1866年であった。その後、変異、競合、淘汰、生物群集と環境との関係等々の重要さが明らかになるにつれてBiocoenosis, Biome 等の新概念が提唱され、1935年A.G. Tansley のEcosystem(生態系)に至った。さらにR.L. Lindeman (1942) の論考を経て今日の定義が定まった。F.N. Egerton (2017)はその歴史を詳述している。それを読むと、ecosystemという語が確立するまでには多くの科学者の討論や論考の蓄積があったことが分かる。深遠であり、重々しい用語なのだ。

「生態系」は、生物群集とそれを取巻く物理的、化学的環境がつくりだす機能的な総体だとされる。低次生産層はその一部であり、それをもって「生態系」だとはいえない。これほど明らかなのに「低次生態系」と言い誤るのはなぜだろうか。発端はどうやら生態系モデル研究にあったようだ。

複雑な生態系の動態をモデル化することは難しい。膨大数の構成種間の関係は複雑、個々の種の生理生態は環境や齢によって変動し、水圏では多くの種が常に水中を浮動していて変転極まりない。そんな動態を一気にモデル化することはできない。それゆえ、まずは系の基盤である低次生産層だけを対象にしたのは、堅実かつ当然な手法である。そのことを示す英語の例が、北太平洋海洋科学機構(PICES)の“NEMURO - a lower trophic level model for the North Pacific marine ecosystem, Ecological Modelling (2007)”である。ここで、“lower trophic ecosystem model”ではなく“lower trophic level model”であることに注目してほしい。「低次生産層モデル」であり、「低次生態系モデル」ではないのだ。

「低次生態系モデル」というのは「生態系モデルの低次生産層部分」の意味だと強弁できそうだが、「低次生態系」というのは間違っている。部分と全体は同じというに等しい。部分と全体の対立を懸命に説いたW.K. Heisenberg (1969)**の姿が想起され、安易すぎるとの感は否めない。

生態系には低次生産層も高次生産層もあり、それら全てが機能しあって総体をなしている。低次生態系という表現は、生態系の概念を築き上げてきた先人たちの労苦を軽視することになる。英語の表現がそうであるように「生態系の低次生産層」とか、せめて「低次生産系」などとするべきではないか。若い学徒に科学の厳格さを伝えることにもなろう。

F.N. Egerton (2017) History of Ecological Sciences, Part 59: Niches, Biomes, Ecosystems, and Systems. Bulletin of the Ecological Society of America, 98(4): 298-337.(ネット公開あり)

** W.K. Heisenberg (1969) ‘Der Teil und das Ganze’ (部分と全体:邦訳あり)

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