通信No. 50 海の言葉44【海の牧草 ① 誕生の経緯】

2022年09月22日

「海の牧草」は、海洋生態学や水産資源学における専門用語の一つである。牧歌的な詩情をたたえているので、一般書などでも叙景的な比喩として使われることが多い。そのせいか、科学性が求められる場合にも、定義が不確かなまま安易に使われがちである。

 牧草なのだから植物、とりわけ好漁場となる海域に卓越する珪藻プランクトンを指すという人、魚を家畜になぞらえてその餌を牧草というのだから動物プランクトンだという人、さらに動植物プランクトンが多い海域を指すという人など、諸説紛々である。最近は、家畜に比すべきものは大型養殖魚だと考えてか、ブリやマグロの餌であるイワシこそが海の牧草だという説もある。それぞれにインターネットを賑わしているので、どれが妥当なのかが分からなくなっている。一旦原点に返ってその所以を考証し、原義を確認しなければならない。

 確からしい初出は、英国のジョンストン(J. Johnstone) の “Conditions of Life in the Sea (1908)”のpastures of the seaおよび meadows of the seaのようだ*1。ふつうpastureは牧草、meadowは牧草地なので、「海の牧草」とか「海の牧草地」という意味だったことになる。家畜がいるはずのない海で、牧草とか牧草地とは一体何を指していたのか。

 19世紀後半、ヨーロッパでは汽船や大型トロールなどが発達し、それ以前とは比較にならぬ速度で漁場と漁獲量が拡大した。その結果、沿岸諸国間で漁業資源の争奪戦が起こり、「乱獲」の危機が迫っていた。諸国が連携して広い海域の資源を調査し、それを共同で管理する必要性は誰の目にも明らかであった。時は第一次世界大戦前夜、諸国間に軋轢があってさぞかし困難だったと思われるが、スエーデン王の主導により、1902年、諸国は国際海洋探査委員会(International Council for Exploration of the Sea, ICES)を設立し、協調態勢を整えた。こうして組織的な資源の調査と管理が始まり、危機は回避された。ここに至る過程に、「海の牧草」が何を意味していたかのヒントがある。

 ドイツのヘンゼン(V. Hensen) が1887年に行ったPlankton Expeditionは、温暖な海域よりも寒冷な海域にプランクトンが多いことを明らかにした。それは、確かに漁獲量の分布とは矛盾しないが、農耕地の生産とは真逆の現象であった。科学者たちは混乱した。同じドイツのブラント(K. Brandt) は、農耕地の生産は栄養塩(肥料)や光などの要因に支配されるという農芸化学者リービッヒ(J. von Liebig) の発見に照らして、魚類資源の生産力も栄養塩とプランクトンとの関係から解明できると考えた。1888年から1920年代にかけてのことである。それがあってICESは、プランクトンと栄養塩を資源調査の項目に加えた。そしてジョンストンは、家畜に対する牧草の機能と魚類に対するプランクトンの機能との相同性を鮮明にするために、プランクトンを「海の牧草」に喩えたのだろう。

 その後の1920-30年代、栄養塩とプランクトンとの関係の究明では、英国海洋生物学協会のハーヴェイ(H.W. Harvey) らが活躍した。ハーヴェイは、生産力が高くても動物プランクトンによる摂食圧が高いために植物プランクトン現存量が増えない現象を“the sea was a closely-grazed pasture”と喩えた(1934年)*4。これは、植物プランクトンの生産量は、植物プランクトン自体の現存量としてではなく、動物プランクトンの現存量として顕在化することを意味している。その動物プランクトンが魚類の餌すなわち「海の牧草」として機能するのである。植物プランクトンは、現存量は少なくても、魚類の直接的な餌にはならなくても、動物プランクトンを支えるほとんど唯一の存在として常に認知される。それゆえ、動物プランクトンと植物プランクトンを一体化して「海の牧草」に喩えたと理解できる。
 

1, 4 文献は通信No. 51 海の言葉45にまとめて示す。

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