通信No. 54 海の言葉48【ウクライナの国章Trident of Poseidon】

2023年01月10日

 ウクライナのゼレンスキー大統領は2022年12月21日米国を訪問、連邦議会で演説したが、その服装がスェットシャツだったことを保守派が批判し、話題になった*1。写真をみると、それにはウクライナの国章が付いており、略式軍装のようである。略式では非礼なのか、暴虐な侵略者と必死に戦っている国のリーダにはこれこそがふさわしいのか、意見は分かれている。私はその国章がTrident of Poseidonであることに目をひかれた。ポセイドンは海の神だからである。

 Trident of Poseidonはポセイドンの標徴であり、ふつう「三又の矛(ほこ)」と訳され、在日ウクライナ大使館のHPは「三叉戟(さんさげき)」と書いている。矛は敵を刺したり斬ったりする広刃の槍、戟(げき)は矛に鳶口のような戈(か)を組み合わせた、いずれも武器である。

 単にtrident(トライデント)といえば、武器にかぎらず漁具をも指す。穂が三本あるというのがその意味である。漁具ならば三つ又のやす(簎)とか三つ又のもり(銛)ということになる。やすは手に持って魚などを突くもの、銛は大型魚や海獣を狙って投げ打つものである。

 ここで疑問が持ち上がる。ポセイドンは海の神なのだから、その標徴は矛とか戟ではなく「三又のやす」というべきではないのか?

 歴史上いくつも国や権力者がトライデントを国章や軍の紋章にしてきた。自己の力を荒ぶる海神の比類なき力に擬したのであり、そこではトライデントは武器として認識されていたであろう。ところが、ウクライナの国章をみると、3本の穂のうち外側2本の根元は大きくえぐられて「返し」になっている*2。古代のギリシア・ローマの彫像や絵にみられるオリジナルのTrident of Poseidonでは、3本の穂先すべてに明瞭な返しがある。返しは、突いた魚などの脱落を防ぐものである。射放つ矢はしらず、握ったまま刺突を繰り返す矛などに返しを付けるはずはない。Trident of Poseidonは「やす」なのだ。それがなぜ武器である矛や戟といわれるようになったのか。

 そもそもTrident of Poseidonは、サイクロプスがポセイドンのために鍛造したやすである。ポセイドンらオリンポス神族が先代の巨神族(タイタン)との戦いに勝ったとき、それまで投獄されていたサイクロプスたちを解放した。そのお礼にサイクロプスが造ってプレゼントしたのである。その後オリンポス神族は巨人族(ジャイアンツ)と戦うことになったが、そのときポセイドンは「三又のやす」を使って戦った。ただし、刺突器としてではない。彼がトライデントを振るうと海は裂け、大地は激しく揺れ動いて山は崩れ落ち、火を噴いた。サイクロプスは、天空神ゼウスには雷霆(落雷)を、冥界の神ハデスには隠れ兜をプレゼントしたが、それらも戦いに使われ、オリンポス神族に勝利をもたらした*3。だから、Trident of Poseidonを武器とみなすのは間違いではない。ただし、本来は漁具であった。返しのついたやすで敵を刺せば抜けなくなるから、ポセイドンはやすを振るって大津波、大地震、大噴火を敵に浴びせかけたのだ。

 神々の戦いが終わって人の世になると、ポセイドンはもっと穏やかなことにもトライデントを使った。それでも、地震、噴火、津波などが起きるたびに人々はポセイドンが怒っていると恐れたという。かのオディッセウスはポセイドンが怒りにまかせて起こした海の嵐のために10年間も漂流しなければならなかった。ポセイドンこそは、真に荒ぶる神なのだ。Trident of Poseidonを強い軍、強い国の紋章にするのは当然だろう*4

*1 Newsweek, 2022年12月23日配信: 「「普段着」のゼレンスキーを無礼と非難した米保守派は、チャーチルを見よ」

*2 ヨーロッパ史入門 <  https://europa-japan.com > ヨーロッパのシンボル>国章> ウクライナ紋章の意味と歴史

*3  Theoi Project <  https://www.theoi.com >のGreek Mythologyに豊富な資料が掲載されている

*4 ゼウスの雷霆は「三又のやす」よりも強力だったが、図像化し難いからか、国章に採用された例はほとんどない。

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