通信No.5 海の言葉⑤

2012年11月09日

【海の深度区分】

光合成植物を基礎生産者とし、それを動物が食べ、それらの排出物や遺骸を菌類が分解する物質循環系は生態系の骨格である。
これは海洋圏でも陸圏でも同じだが、生態系の構成種とその生き様は、海と陸とでは大いに異なる。その原因のひとつが海の深さにある。海洋環境は深度によって異なるので、深度区分が必要になる。

表面から水深200 mまでを表層(epipelagic zone)、200-1,000 mを中層(mesopelagic zone)、1,000-3,000 mを漸深層(bathypelagic zone)、3,000-6,000 mを深層(abyssopelagic zone)、6,000 m以深を超深層(hadopelagic zone)とする。それぞれに特徴ある環境と生物群集が存在するが、ここでは区分の名称を話題にしたい。

“Pelagic”は「海の」、「沖の」というギリシア語に由来するが、ふつう「海底や海岸から離れた水中」という意味で使われる、海洋学・湖沼学の言葉である。沖であっても、その海底はpelagicではない。

“Zone”は「帯」、「ベルト」を意味するギリシア語を起源とし、熱帯(tropical zone)とか温帯(temperate zone)のような帯状構造から、排他的経済水域(exclusive economic zone)や文教地区(school zone)のような特定区域も指す言葉になって日常生活に浸透している。

また、表層の“epi-”と中層の“meso-”という接頭語は、それぞれ「表、外、上」と「中間」を意味し、「裏、内、下」を意味する接頭語“hypo-”とともに、ふだん目にすることが多い。なじみが薄いのは、漸深層から超深層までの語の接頭語である。その説明をさせていただきたい。

“船はボレアス(boreas = 北風)の息吹が進めてくれる。ですが、船でオケアノスの流れを渡ると……ハデスのかびくさい館に行くがよい……”(高津春繁訳:オディセイア第10巻)。
これは、故国に帰りたがるオディセウスに対して、今は冥界にいる盲目の予言者テイレシアス(かつてオイディプス王の不幸な運命を予言した)に運命を占ってもらうようすすめる女神キルケーが、生きた人間が冥界に行く方法を教えている場面である。ハデスHadesは地下の国の主神であり、元来は死の神ではない。
海洋学では6,000 m 以深の“超深海"を示すときにHadesを起源とするhadopelagic zone(水中)とか hadal zone(海底)という言葉を使うが、この引用文からその背景が見えてくる。

古典ギリシアの人々は、中央に地中海をいだく円盤状の世界を大河オケアノス(Oceanos)がとりまいていると考えていた。日の没する西の果ては世界の終り、オケアノスのその部分(あるいはその北)に浮かぶ島に冥界への入口があると考えていた。したがって、中層よりも深いbathypelagic zoneとabyssopelagic zoneのさらに下層にある、極限の深海はhadopelagic zoneとよばれるべきだ(cf. Bruun 1955)。
当時、abyssalよりも深いのだからultra-abyssalにしようという意見もあったが、そうではなくて古典ギリシアの世界観を透徹させる名称に統一したわけである。

Posted on November 9, 2012

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