通信No.6 海の言葉⑥

2012年12月26日

【Abyssos】

前号に記したように、水深3,000-6,000 mを深層(abyssopelagic zone)とよぶ。海洋学で「深層」とか「深海」というときは、この深さ以深を指している。
このabysso-という接頭語、あるいは abyssalという形容詞は、byssos(= the bottom of the sea)に否定の接頭語a- が付いてできたギリシア語起源の言葉である。「海底」の否定だから「底なしbottomless」ということになる。冥界にあると想像されていた空洞を指すともいわれる。

鍛冶の神へパイストスが幼いころにかくまわれた、オケアノスの底にある“中のうつろな洞穴”(呉茂一訳:イリアス・第18巻)というのはこのことだろうか。Abyssosは、旧約聖書の時代になると、創世のときに陸の下にとじ込められた原始の海を指す名になったという。キリスト教徒には知られた言葉だったのだろう。

ダーウィンの進化論が世を騒がしくしていた19世紀後半、いわゆる「missing link, 失われた鎖環」を探しながら世界一周の深海探検航海をしていたチャレンジャー号上で、ペットとして飼われていたオウムが“What! 2,000 fathoms and no bottom! Ah, Doctor Carpenter, F.R.S.”と叫んでいたと、同号の紹介記事に書かれている。王立学土院会員(F.R.S.)カーペンタ博土は深海生物学者だが、ここではその人よりも“no bottom!”の方を見てほしい。

チャレンジャー号にはまだワイヤーロープも電動ウィンチもなく、マニラロープを低速のドラムで繰り出したり巻き上げたりしていた。
ロープを繰り出していくと自重で破断する恐れがあるので、長いロープは先端から根元に向かって順に太くなるように作られている。テーパードロープ(tapered rope)だ。したがって、長いロープは重いだけでなく、その嵩(かさ)も大変大きい。そんなロープを繰り出してはまた巻き上げる作業は、労力を要することはもちろん、ひどく時間がかかる作業だった。

当時の乗船研究者は、みずからは甲板作業をせず、船員がする作業を見守るのが習慣であった。
それが深海生物の採集作業であったならば、研究者の心は、始めて目にするに違いない生物への期待でいっぱいだったろう。一方、長いロープを降ろしてまた引き上げるだけの深海測深は、カーペンタ博土ならずとも、退屈で気がめいる作業だっただろう。
いずれにしても、もう3,600 mも繰り出しているのにロープの先はまだ海底にとどかないのだから、“なんてこった!まるで底なしだ!”と叫びたくもなるはずだ。その気持ちにぴったりとあう言葉がabyssosだったのだろう。

因みに、1 fathomは182.88 cm。チャレンジャー号が測定した最深記録は8,184 mで、場所は現在のチャレンジャー海淵だったという。現在公認されている最深記録は、やはりチャレンジャー海淵で日本の水路部が測定した10,920±10 m、チャレンジャー号の探検航海(1872-76年)から百年後の1984年に記録された。ただし、チャレンジャー海淵という名称は、別のチャレンジャー号に由来している。

Posted on December 26, 2012

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