通信No.24 専門的文書の漢字⑤

2017年04月26日

【浸食か侵食か】

本シリーズ③で、代用語の例として挙げた「浸蝕→浸食」に関して、地学や海岸工学では「侵食(侵蝕)」と書くのではないかとの指摘をいただいた。確かに、文部省学術用語集地学編(1984)が「浸食」を「侵食」に変えたのを受けて、学校の教科書や一部の専門書は「侵食」としている。一方、この変更を諒とせず、「浸食」のままとしている専門書もあり、混乱がみられる。どうしてこうなったのか、そしてなによりも、我われはどちらを使うべきなのかを考えなければならない。

その前に、指摘しておくべきことがある。「侵食」と「浸食」は、本来別の語だということである。「侵食」は、広辞苑で「漸次におかし、そこなうこと」とされているように犯罪に類する行為で、内閣法制局「法令における漢字使用等について」にも例示されている。「侵食」は、「浸食」とは全く別な語として存在しているということを、まず理解してほしい。

また、「蝕」を「食」で代用することは1956年という早期に国語審議会が建議したことである。文部省が学術用語集地学編について審議した1980年前後には、「蝕」の字義に思いを致す人はすでに少なかったであろう。このことにも留意していただきたい。

さて、地学現象の「浸食」を「侵食」とした経緯は、例えば東京書籍のHPにみられる。以前は水の働きなどを考慮して「浸食」としていたが、学術用語集地学編を受けて、1990年から「侵食」に変えた。旧文部省に理由を問うたところ、『地学では,河川が土地を削り取る(領土・土地を侵犯する)という働きの方を重視して,侵(おかす)の文字にすべきである』という地学専門家の判断によったとの回答であった、と。これをみて、語学者抜きで論議をしたことが混乱を招いた、と直感した。すでに「食」が定着し、地学専門家は「蝕」のことを忘れていたのではないかと感じたのだ。もしそこに語学者がいたならば、「浸食」の語義を担うのは「蝕」であり「浸・侵」の方ではない、と説いただろうと思う。

「侵」は、不可侵の聖域内に箒を持って立ち入り、徐々に奥へと掃き進むという、人の行為を意味する字である。人ではなく、水がじわじわと流れ込む自然現象は、「浸」である。いずれも、聖域内へじりじりと侵入することをいう。

「蝕」は、虫が食うごとく「むしばむ」、「おかす」ことをいう。これらを熟語とするとき、人が他人の領分をじわじわと犯し蝕むことを「侵蝕」とし、自然現象としての風化がじわじわと地形を蝕むことを「浸蝕」とした。ともに「蝕」が語義の中心であり、「侵、浸」は「じわじわと進行する」ことを示していると解釈できる。

「侵蝕」は、昔の中国でも「浸蝕」の意味で使われたことはあったかもしれないが、本来は人間が犯す悪徳のことだったとみなすべきだろう。国語審議会(1956)が「同音の漢字による書きかえ」で挙げた「侵蝕→侵食」の例はこれであり、自然現象の「浸食」を「侵食」とするとの意図はなかったはずだ。文部省学術用語集化学編(初版1956)は、「浸食(蝕)」を堅持しているらしい。これが語学的なセンスだと思う。地学編の審議では、文部省は語学者の意見も聴くべきだったのだ。

以上のことから、自然の地学現象をいう場合には「浸食」と書くのが正しい、という結論に至る。「浸食」とする見解は、広辞苑をはじめとし、新版地学事典(平凡社1996)、地学英和用語辞典(愛智出版1998)など、決してマイナーではない。(付記:同様の論をインターネットで発見した。2009-06-03付の「がくの飛耳長目録」である。これは理系の先生が書いたものらしい。残念ながら言語学者の論説は見当たらない。)

Posted on April 26, 2017

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