1.資料発掘の手がかり
2025年12月19日1960年代に進んだ環境汚染は,さまざまな公害につながる社会問題となり,1970年のいわゆる公害国会では多くの公害関係法案が可決されました。文部(科学)省の補助金による「人間生存にかかわる自然環境に関する基礎研究」という気象,生物,化学,農学,医学,水圏の各分野の研究からなる巨大な研究プロジェクトが始まったのもこのころです。水圏分野の研究の一つに「東京湾の汚染物質の生物地球化学的研究」があり,従来の観測資料のリビューが行われています5)。それによれば,「東京湾の海洋調査は1909年農林水産局が漁業調査を開始して以来,主として水産講習所によって行われた。長期間にわたって,水温と比重(赤沼式比重計による)が定期的に観測された(海洋調査要報)。栄養塩については,1916年に各態窒素の報告が見られる(松井)6)。」とありました。松井の報告6)を読んでみると,タイトルは「海水の化学的研究第一報(大正二年四月)」,副題は「東京湾に於ける浅草海苔場の海水の窒素及びその他の成分に就きて」(嘱託員 松井秀三郎)でした。第一報とはあったものの松井秀三郎の海水に関する研究はこれ一つだけです。
海苔の品質に関しては,品川方面の産は色沢香味ともに優秀で,下総方面の品質はこれに劣るが,それは品川方面の海水が大都市の廃水を交える隅田川の水を混入しているためで,淡水と混合し,また養分が豊富であることが其の原因であるというのが当時の人々の共通認識でした。松井はこのことが本当に正しいのか,科学的根拠を求めることを目的として研究を行いました。水質測定を行った場所は隅田川河口付近の永代橋や相生橋,品川沖の海苔ひびと飛騨線澪(すでに埋立地となっており場所が特定できません),千葉県五井の養老川河口,館山湾,神奈川県金沢湾の鉈切港の内外,蠣種場(採苗地)と夏島身入場(養殖場)などです(金沢湾のこれらの場所もすでに埋め立てられています)。測定したのは主に窒素化合物で「アンモニア」態,有機態,ベッチャー法の3種(ママ)とあります。測定法は現在の方法とは大きく異なりますが,結果として隅田川河口の窒素化合物濃度は高く,品川湾の浅草海苔の養分の大供給源であること。優良な海苔を産する品川海水の窒素含量は,質の悪い海苔を産する五井より高く,五井は夏島や館山より高いこと。海水の比重は品川より五井の方が高いが,鉈切では,五井と同程度のところでも良い海苔を産するので海苔の品質には淡水の混入よりも含窒素濃度の影響のほうが高いかもしれないなどと記しています。
松井秀三郎はその後,水産講習所試験報告第十二巻三冊(大正五年八月)に,単著あるいは筆頭著者として論文13報を発表していますが,全て水産物の化学成分や利用に関するものでした。また,松井秀三郎の論文は大正六年以降には一つも見当たりませんでした。短時間にこれほど多数の論文を書いた著者がその後どうなったのかはなかなか分かりませんでした。
科学論文を探す手段は,ウェッブ検索が始まるまではある論文の引用文献を探し,さらにそこに引用された論文を探すという作業の繰り返しでした。つまり新しい論文から古い論文をたどるという一方通行だったわけで,後世の人が引用しなければ,その論文の存在は忘れ去られてしまいます。ウエッブ検索では,学術論文ばかりでなく,一般書,新聞記事などのタイトルやキーワードがデータベース化されるようになったため,特定の語句を検索することにより,時代の前後に関係なく様々な記録を見つけることができます。強力なデータベースとして,国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)と国立情報学研究所(National Institute of Informatics)のCiNii(Citation Information of NII) があります。
ある日,NDLサーチで松井秀三郎の名前を検索したところ官報が出てきました。大正7年(1919年)5月4日に水産講習所技師に昇任し,11月26日には「水産講習所技師松井秀三郎は・・・関(關)根と改姓せり」とありました。なぜ,松井の名が消えたのかがようやく判明したのです。NDLサーチのデータベースは急速に拡充されており,紙ベースの文書をスキャンした後,OCRでテキストデータに変換することが順次進められています。従来はタイトルやキーワード,著者名などのみで検索が可能で,画像として閲覧が可能であった書籍がデジタルデータ化されたため,文書の全文検索が可能となって,官報に記載された個人名までもが発見できるようになったわけです。
そこで,関根秀三郎をNDLサーチで検索してみると,さまざまな学術論文や著書を執筆したことが分かりました。また,人事興信録から,東京帝国大学農科大学長の初代学長松井直吉の3男であり,1910年に同大学を卒業し,その年に農商務省水産講習所の嘱託となったことが分かりました。関根秀三郎は,その後,農林省水産試験場技師,東京農大教授などとなり主に栄養学の研究を行いました。京都の老舗和菓子店鶴屋吉信の広報誌「あまカラ」にもいくつか寄稿があり,水産講習所に入ってすぐに千島やカムサッカに出張した経緯7)や,幼少時に自宅から銀座まで行くのに飯田河岸から猪牙船で,当時川底まで澄んでいた神田川を下って万世橋の袂で船から上がり,そこから新橋と浅草を結ぶ鉄道馬車で行ったという記述8)などがあり興味深いものです。
結局のところ,関根(松井)秀三郎が残した海洋化学に関する論文は1つだけ6)でしたが,海水の分析に関しては,他では見当たらない方法(ベッチャー法)が使われており,それを探る中で様々なことが明らかになりました。このことに関しては,改めて書くつもりです。
5) 坪田博行・児玉幸雄「東京湾の化学的研究の概観」1973,沿岸海洋研究ノート,11(1), 61-70.
6) 松井秀三郎「海水の化学的研究第1報ー東京湾における浅草海苔場の海水の窒素およびその他の成分に就きて」1916,水産講習所研究報告,12(3), 9-36.
7) 関根秀三郎「北海の珍味」1955, あまカラ, 41, 30-33.
8) 関根秀三郎「幼い頃の思い出」1970, あまカラ, 170, 14-17.